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【アラベスク】  第7章 雲隠れ (後編)



第4節 月明かりはいらない [7]




 救急車の中で意識を取り戻した美鶴。病院で検査を受け、だが命に別状は無いとのことで帰された。
 多量の水を飲んではいるが、骨を折ったりしたワケではない。病院が引き受けるような状態ではない。頭部に受けた打撃の検査結果は後日にならないとわからない。クスリを吸い込んだ影響については、明日対応するから改めて来るようにとのこと。
 このご時勢、病院はどこもパンク状態。
 とは言え、あれだけの暴行を受けても入院させてもらえないなんて、ちょっと酷いな。
 母の詩織(しおり)と瑠駆真に付き添われて帰宅し、横になって一瞬で眠りに落ちた。あまりの速さに不安を感じたほどだ。
 詩織はさすがに慌てた様子だった。美鶴はただ眠っているだけだとわかっても、瑠駆真が強引に職場へ戻さなかったら、きっと普通の母親同様、こうやって美鶴に付き添っていたことだろう。
「ごめんねぇ こんな時に仕事に戻るなんて、ホントにダメな母親だよねぇ」
 詩織の言葉に、後ろめたさを感じなかったワケではない。
 だが瑠駆真は、美鶴と二人っきりになりたかった。ただ、それだけだった。
「美鶴」
 呼びかけても応じない。疲れきり、眠っている。
 電気も付けない、薄暗がり。眠る美鶴と寄り添う瑠駆真。
 窓はあるが、月が出ていないのでそれほど明るくもない。
 月の光は、人の心を乱すと聞いたことがある。ならば、こんな夜にはむしろ出ていない方がいい。
 まさかこんな事になっていようとは。
 もし手遅れになっていたらと思うと、瑠駆真は生きた心地がしない。
 澤村優輝は、あのまま美鶴を溺死させるつもりだったのだろうか? それとも、拉致する時に使ったトルエンを、また使うつもりだったのだろうか?
 それとももっと他の方法で?
 シンナーやトルエンのような有機溶剤は、度を越すと昏睡状態に陥り、命を落とすこともある。
 優輝はトルエンを入れた空き缶を駅舎に持ち込み、美鶴の傍に置いた。それで美鶴は頭がクラクラした。
 布に染み込ませて、無理矢理吸わせた。三人がかりで車に乗せ、あの地下まで運んだ。
 白昼堂々、よくやるよ。
 車で移動中も、トルエンを染ませたティッシューペーパーを空き缶に入れ、車内に置いて、効果を持続もさせていた。
 つまり美鶴は、相当量のトルエンを体内に吸い込んだことになる。
 生きていてくれて、ホッとする。
 同時に湧き上がる、澤村優輝への怒り。
 とんでもない無茶をする。
 車内でトルエンを揮発させる? ボーっとした頭でうっかりタバコに火でも付けようものなら、車もろとも吹っ飛ぶぞ。
 拳を握り、だがそんな自分に苦笑する。

「ずいぶんと、詳しいのね」

 (いぶか)しるような美鶴の声。以前、覚せい剤を手にした時、そんなような言葉を掛けられた。
 アメリカでは珍しくもないというような答えを、返したと思う。その言葉に、間違いはない。
 アメリカでは、油断すればすぐにクスリの手が伸びてくる。
 いや、別にアメリカに限ったことではないんだ。
 こうやって日本でも、アジアの他の国でも遠くヨーロッパでも、世界中どこにいたって、弱い人間はすぐに付け込まれる。
 そう、瑠駆真のような弱い人間は、すぐに付け込まれる。
 付け込まれて、好奇心に逆らえず―――
 思わず強く、頭を振る。
 一回だけだ。一回だけで、すぐ辞めた。
 だってだって―――― 怖かったから。

 怖い。
 その一言が、不愉快だ。

 僕は臆病で、いくじなし。怖くてクスリも続けられなかった。
 情けない
 そう。僕もまた、あの里奈という少女のように、いくじがなくて、弱くて(もろ)い。美鶴がいなければ僕だって、きっと崩れて壊れていた。
 今こうやって唐渓で学校生活を送るなんてこと、きっとできなかったはずだ。それに、たとえば昼間のように聡に罠を仕掛けるなんてコト、今までの僕にはできなかった。
 美鶴がいなくなったら僕は―――







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